ほんへんししゃ

東京から電車で約2時間半。
無人駅からさらに車で15分程。
そこはかつて馬場があった、山に囲まれた集落。
土の匂いのする陽の当たらない部屋で、
ひんやりとした畳に体温を奪われ、僕は目覚めた。
襖の向こうから声がする。
気づかれないように覗くと、背広姿の中年の男が二人、
掘りごたつに足を伸ばすこともなく正座をしている。
と、急に襖に近づく足音がし、
僕はかぶっていた毛布をもう一度頭からかぶる。
「監督、クライアント来てます。監督」
小声で誰かに起こされると、ようやく頭が回転をはじめる。
そうだ、明け方まで編集していた仕事の試写があるんだっけ。
僕はまるで今起きたかのように目をこすり、毛布から顔を出す。
「わかった。ちょっと試写の前に風呂だけ入らせて」
冗談で言ったつもりのひと言だったが、返ってきた言葉は意外なものだった。
「じゃあ離れにもう湯をはってあるから早くね」
え?と見つめたその顔は、プロデューサーではなく従弟の顔だった。
「お…おう…」
なんだか状況が呑込めないままバスタオルを受け取り、
居間で待ち構えているクライアントに気づかれないよう玄関から忍び出る。
離れは、亡くなった祖父が使っていたもの。
農作業の道具部屋、ゴミ置き場、
そしてシンクのある土間がひと続きになっている。
シンクの足下には梅干しや沢庵の漬かっている瓶が並び、
部屋中になつかしい匂いが充満している。
浴槽はシンクのちょうど裏側にぽんと置かれていて、
仕切りの壁すらない妙な配置だ。
僕は服を脱ぐとそばにあった2ドアの冷蔵庫の上に置いた。
冷蔵庫は土まみれで汚れに汚れており、
赤茶色の蜜?のようなものまで垂れ流れていた。
いったい何が入ってんだ?
おそらくは腐った食料がぎゅうぎゅうに詰まっているであろう
2ドアの上のほう、冷凍室のドアを興味本位で開けてみたその瞬間。
ぶいーーーーーーーーーーーーーーーーん
大きなスズメバチが、僕の顔を目がけて飛び出してきた。
慌ててバスタオルをブン回し対抗するも、器用にハチはすり抜け、
僕への攻撃を諦めてはくれない。
鼻先5センチまで近づいて、もう耐えられずに外へ逃げ出した。
全裸で、バスタオルをやみくもに振り回しながら。
ああ、こんな姿、見つかったらどう思われるだろうか。
頭の片隅には冷静な自分もいたりして。
とにかく今は、このスズメバチにどこかへ行ってもらうことが先決。
どっかいけ!しっ!しっ!
もがいてもがいて何度も体当たりしたのだろう
赤茶色の蜜がたっぷりその身についたスズメバチは、
いったいいつからあの冷蔵庫に閉じ込められていたのか。
追払いながらそんな事を考えていたせいか、
ついに鼻先1センチにまで近づかれ…!!!
部屋中にケータイのアラームが鳴り響く。
ハチに刺されたはずの僕の鼻先は、
ゴロゴロと喉を鳴らしたラムネさんに舐められていた。
ああ、編集に行かねば。