時が止まるとき

春が過ぎた頃だったか、長年愛用してきたオフィスチェアが、壊れた。
編集もする僕にとっては肩こり腰痛対策としては重要な存在。
早速大枚はたいてかの有名な
Heman Miller社製のミラチェアなるものを購入。
しかし、こいつがどうもしっくりこない。
「あぐら」が、かけないのだ。
ひとりで使う分にはあぐらなんてかけなくてもいいのだが、
ここは愛猫ヨルの定位置のひとつでもある。
冬場の寒い時期などは、僕のあぐらの上に寝そべるのが彼女の習慣。
せっかく購入した高級チェアはオークションで売り払い、
あぐらのかけるイスを探した。
座り心地がいくら良くても、
ヨルとのスキンシップが絶たれてしまっては意味がないのだ。
そう、ウチでは全てが彼女中心で廻っている。
とはいえ、暖かい時期はあぐらに乗りたがることもないので、
焦らず次のイスを探すことにした。
ようやく目当てのイスが入荷され、手に入れた7月。
暑くて嫌がるヨルを無理矢理乗せてみてテスト……合格だ!
これで秋からはイスの上でごろごろできるな~
なんて話しかけていた矢先だった。
暑い日が続いて、急激に寒い日になった頃、
ヨルは次第に食欲を落とし、滅多にしない嘔吐をするようになった。
病院に連れて行くと、またもや血液の数値が芳しくない。
彼女は、慢性腎不全持ちの猫。
何年も病状が進行しては投薬や輸液によって回復するという繰り返し。
だから数値が良くないとはいえ
去年体調を崩したときとほぼ同じくらいであり、
心のどこかでまた持ちこたえてくれるだろうと決めつけていた。
実際、元気はあるんだ。
食事だって時間になればいつものようにせがんでくるし、
普段どおりじゃれて噛み付いてきたりもした。
とりあえずは輸液をしてもらい、様子を見ることに。
翌日。
体調が急変。
食欲が無いどころではなく全く口をつけない。
食べてもいないのに嘔吐はとまらない。
みるみる衰弱していくのがわかった。
急いで病院に行くと、昨日の数値がウソであるかのように跳ね上がっていた。
緊急入院。
原因を調べるための検査と、24時間点滴の処置をしてもらう。
入院1日目。
見舞いにいくと、恨むかのような目つきでうーうーとなく。
そうだよね、苦しいし、さみしいし、こんなとこ嫌だよな……
どうやら夜通し逃亡を図ったようで、
前足の爪は剥がれて流血までしたそうだ。
まだ幼い頃、避妊手術の入院先で、
夜通し泣いて獣医を困らせたことを思い出した。
僕が見舞いにいくとぴたっと泣き止み、
膝の上でぐるぐるといっていたっけか。
レントゲンの結果、片方の腎臓が既に萎縮しきっており、
もう片方には白い影があるのが見えた。
腎臓の石灰化が始まっていたのだ。
腎機能が失われると尿から体内の毒素を排出することができなくなり、
やがては毒素が全身にいきわたって死に至る。
最後の手段として、ドパミンを投与して血流を促し、
腎臓がまた動き出してくれることに望みをかける。
入院2日目。
もう生気は少なく、返事もしない。
呼びかけるとわずかにしっぽで答えるのみ。
獣医はもう既に希望のある事を言わなくなった。
覚悟した。もうおそらく……
明日、一応状況確認の採血検査が終ったら連れて帰ろう。
こんな他の犬や猫がないている施設じゃなくて、
君が一番好きな君のウチに。
そして仕事もなにも全部休んで、最期の瞬間までそばにいてあげるんだ。
一番苦しいときに、一緒にいてあげられなかった分も。
腎不全によくないからってあげなかった大好物のマグロもあげてもいい。
とにかく一緒にいてあげる。
それくらいしかできないけど、
たぶん彼女が一番望んでいることのような気がしていた。
夜はなかなか眠れなかった。
台所に立つと、とことことヨルがまとわりついてくるような気がして。
トイレに入ると、ヨルが泣くような気がしてドアを少し開けて。
部屋の隅の暗がりに、押し入れの上の方に、クッションを敷いた寝床に。
ここあそこにヨルがいるような気がして、落ち着かない。
午前8時。
いつもの目覚ましで起きる。
携帯には7時の時点での着信。
獣医が見回りにいくと、既に息絶えていたとの知らせ。
時が止まった……
ごめんな
これしか言えない。
なぜもっと早く帰宅の決断ができなかったのか。
なぜもっと早い段階でレントゲン撮影をお願いしなかったのか。
なぜこんなにも病気に疎い飼い主の元に呼んできてしまったのか。
ごめん、ごめんよ、ヨル……
開店直後の病院では、元気な小型犬を連れたおじさんが座っていた。
僕を見て、遊んでくれとせがむその犬にも、
手を差し伸べる余裕すらなかった。
獣医に呼ばれて奥へと案内されると、
施術台の上に横たわったヨルがいた。
触るとほのかにまだ暖かい。
しかし死後硬直がはじまっており、まるで人形のようだった。
うっすらと涙を浮かべてくれた獣医と受付のお姉さんに、
長い間お世話になりました、とまるで
出所する犯罪者のような挨拶をして後にする。
そして今。
クーラーでがんがんに冷やした部屋に、ヨルを横たえて。
何も考えられない。
頭を整理しようと、この日記を書いたつもりだが、
数学の計算のようには正しいと思われる答えが見つかるわけでもない。
とりあえずは一緒に過ごそうと思う。
もう、彼女の意識はないけれども。
彼女は逝く間際、何を思ったのだろうか。
彼女は昨夜、何をして欲しかったのだろうか。
彼女はもしかして、もしかして、もしかして
……やめておこう。そんな事考えても無意味だ。
ようやくウチに戻ったヨルは、
まるでいつものように眠っているかのよう。
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