自分史2013

年 表

1976年11月4日、群馬県渋川市の病院にて生まれる(実家は東京都世田谷区)。血液型O型。声が低く妙な泣き声に親戚一同、驚く。父の友人2名から一文字づついただいたというお手軽な命名で「清水芳成(しみずよしなり)」と名付けられる。

1983年4月〜天然パーマで運動音痴な小学生。たまにイジメにあっていたが、毎年絵画コンクール入賞の常連だったことだけが小さな居場所を作った。愛読書は「ドラえもん」。何の取り柄もないと思われていたのび太が、射撃の腕前で活躍する「のび太の宇宙開拓史」に自分を重ね合わせた。

1989年4月〜中学校デビュー。髪型をリーゼントにし当時廃れかけていたボンタンを履いて通学、見た目だけ不良に。イカ天ブームでミュージシャンを志し、弦が少ないから楽できそうという理由でベースを購入するも、ほとんど押し入れの中にしまったまま腐らせる。

1990年、実家がレンタルビデオ店を開業。店番を手伝いながら映画三昧の日々。「ビッグ」「摩天楼はバラ色に」「マネキン」「スプラッシュ」など、冴えない主人公が成功もしくは美女と恋仲になる作品ばかり好んで見ていた。低い地声のせいで国語の朗読の度に教室が静まり返ることに気をよくし、登録料ボッタクリの俳優事務所に所属(以後3年続けるがろくな仕事の紹介もなく辞める)、役者を目指す。運良く授業料免除の特待生にはなれたものの日活出身の映画監督(お名前は失念)の演技指導に反発。同時期に林海象が企画・原案・総合監督を務めた「アジアン・ビート」シリーズを観て、各国監督の演出の違いに興味を持ち、役者よりも映画監督へ憧れを抱くようになる。

1992年4月〜日本大学藝術学部映画学科を目指し、付属高校へ進学。シナリオ・センターに通いながらファーストフード店でバイトの日々。石井隆に傾倒し、大学の内部受験時には「好きなジャンルはロマンポルノです」と答えたことをきっかけに面接官が顔色を変え、学科が自己採点でほぼ90点以上だったのにも関わらず不合格。一般入試で再受験するもまたも不合格、同経済学部に進学し仮面浪人を決める。

1996年、家賃3万円の風呂なし踏切横のボロアパート住まい。それでもなんとかバイト代を貯めて当時珍しく動画編集のできたMacintosh Performa 5420を購入。しかしビデオカメラまで買う余裕が無く、手書きの画像ファイルを繋ぎパラパラアニメにするくらいしかできず。
また、3度目の受験をするも大敗。映画専門学校への進路方向を決めるも、親にも内緒の仮面浪人であったために転学の学費は断り、新聞奨学生として入学。この頃、大学退学を聞きつけた高校時代からの友人、後にGREEを立ち上げる田中良和日本酒の瓶を片手に訪れ、夢を語り合う一夜を過ごす。彼を送り出したその直後、台所で逆噴射。お互いの分岐点だった素晴らしいはずの思い出は、嫌な臭いで彩られるはめに。

1997年4月〜東京映像芸術学院へ進学、園子温今関あきよしなどに学ぶ。当時多くの映画学生と同じく岩井俊二に傾倒、さらにレオス・カラックスにも影響を受けたボーイ・ミーツ・ガールな作風の学生映画を中短編3作監督。当時は映画祭という存在すら知らず、作ったまま学内で上映したのみでお蔵入り。勉強よりも、どうやったら新聞配達や集金が早く終わらせられ睡眠時間を作れるかばかりを考えていた。

1998年、映像作家竹内鉄郎率いる竹内芸能企画の扉を叩く。レンタルビデオ店の息子であることから、主に資料映像探し。ギターウルフや当時歌手活動もしていたお笑いトリオ・ネプチューンなどのミュージックビデオ制作にも参加。彼の圧倒的なパワーに憧れを抱く反面、社員というカタチで雇用されないことに不安を覚えてしまい所属を辞退。

1999年、CM制作会社TC.MAXに入社。システマチックにディレクターとして育つため選んだ選択肢のつもりが、演出部のない会社だと出社初日に判明、先輩方にディレクターになるのは無理だと笑われる(無知故に制作会社=ディレクターの会社とばかり思っていた)。入社時点でMacが不自由なく使えたことで重宝され、プレゼン資料や演出コンテの作成などを優先して担う。何かにつけて怒鳴られる撮影現場から逃げる口実になっていた。

2000年、月に数日しか帰宅できない程に多忙な中、映像制作集団「NICE AGE?PRODUCTION」を立ち上げ、週末限定のミュージックビデオ制作を始める。友人のシンガーソングライター勝野慎子をはじめ、レピッシュのギタリスト杉本恭一率いるanalers辛島美登里などの作品を手がける。

2001年、独立。NICE AGE?PRODUCTIONを「miu reel(ミュウリール)」と改め再始動、法人化を試みるもメンバーと意見が合わず解散。フリーランスの映像ディレクターとして活動を始める。ミュージックビデオや企業VP、イベント映像、MTV JAPANでカウントダウン番組などを手がける。
フリーになるにあたり、げんかつぎに「清水伶(りょう)」と芸名をつける。由来は雅楽の演奏者「伶人」から。当時はミュージックビデオがメインであったため「音を奏でるように映像をつくりたい」という想いが込められている。ちなみに学生時代からのパートナーであるカメラマン高橋一己は、現在も本名のままの「ヨシナリ」と呼ぶので撮影現場が混乱することもしばしば。

2003年、DVD特典映像の編集をきっかけに上戸彩のメイキングディレクター(音楽活動のみ)に。以後4年間、ツアーなどにも同行して数々のオフショットを撮影。同時期にCMやドキュメンタリーなどのオファーも増え始め、最盛期には14本同時稼働という過密スケジュールに陥る。逆流性食道炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍を同時発症。

2005年、当時流行ったケータイ動画の流れを受け、作品量産のために数人の若手クリエイターと組み短編連続映画「cable」を制作(後に一本化した作品がSHORT SHORTS FILM FESTIVALなどで上映されるも受賞なし)。映画制作への情熱が再燃、映画で商業デビューしているわけでもないのに協同組合日本映画監督協会に所属させてもらう。8代理事長の崔洋一高橋伴明らと共に文化庁などとの渉外に携わるも、やっていることが何のことかわからず傍らで頷くのみ。

2006年、日本映画監督協会製作「映画監督って何だ!」(監督:伊藤俊也/劇中劇監督は登場順で本木克英鈴木清順林海象)に企画から制作補助、現場のスクリプト、編集などとしてがっつり参加。所属監督達による低予算のインディーズ映画作品ではあったが、初の映画制作の現場で諸先輩方から現場の演出方法や編集カットのタイミングまで、多くを学ぶ。映画監督を目指すきっかけとなった林海象に「他人に編集してもらって一発OKを出したのは初めてだ!」とお世辞をいただき感無量。作品完成後、諸先輩方が誰も芸名を読めなかった(だいたいは「レイさん」)ことから片仮名表記の「清水リョウ」に改名。伊藤俊也より「お前、負けちゃダメだよ!」と激をもらう。ちなみに一番間違える回数が多かったのも氏である。

2007年より「サプリライズ Vol.01手繰る糸」(連作にするつもりが力尽きる)、「5 seconds」(デジタルショートアワード本選、受賞なし)、「OFF-LINE」と短・中編のインディーズ映画作品を毎年製作。つくることはできても、その作品を活かす術がなく結果全部お蔵入り。

2008年、既にメインの仕事となりつつある広告業において、その取り組みを見つめ直すべく宣伝会議主催のクリエイティブ講座にて1年間学ぶ。広告業界のメジャーな諸先輩方からの教えを受け、また世代の近い仲間達からの刺激もあり、企画から参加し責任の持てるディレクターでありたいと心に決める。師であるクリエイティブディレクター箭内道彦から初日に「ディレクターなの?じゃあこの期間中で生徒みんなと作品作ってよ」というひと言を受け、生徒らが企画監督する架空の連作CMをプロデュース、卒業パーティーで上映するも師本人は「オレそんなこと言ったっけ?」というオチ。

2009年、泉鏡花の「婦系図」をモチーフにした短編「鏡花-From Geisha’s eyes-」を後輩・酒井洋一をディレクターに迎え製作。DSLR撮影に火をつけたCanon EOS 5D Mark IIのテストムービーとしてつくったものでキヤノンに売り込みをかけるも玉砕。

同時期に泉谷しげると出会いミュージックビデオの監督、地域活性構想「ロード・オブ・ライブ」やネット放送「泉谷しげるのコラコラ放送局」の撮影編集など約2年間に渡りどっぷり携わり、彼のアトリエに寝泊まりし二人で作品制作する日々。やりたいことを他人のためになることに繋げるチカラを目の当たりにし、それらが広告や映画にも結びつくクリエイティブに必要なものだと確信、瞬発力の大切さなども学ぶ。

2010年4月、交通事故に遭う。いっかいやすみ。

2011年3月11日、東日本大震災で被災。事務所の入ったマンションが取り壊しになる事態に。映像を生業とする者として瞬発力を発揮すべき時期と思い立つも、表現することで傷つく人がいるのではないかと自問自答を始めてしまい動けず。

2012年11月、30代後半にさしかかるというのに代表作と言えるものもなし。作品数だけ立派な器用貧乏にならないためにも、あがき続ける毎日!

※以上、清水リョウという人物を知らない方々に少しでもわかりやすく伝わるよう、関わりのある著名な方々のお名前を借りるカタチとさせていただきました。敬称は省略させていただき、かつ、ご紹介も兼ねて各関連サイトへのリンクを貼らせていただいております。尚、幼少期を除き、現在の職業に繋がるエピソードのみ抽出しておりますので、友人関係や恋愛、私生活などについては言及しておりません。期待して読まれた関係者のみなさま、申し訳ありません。そして最後までお読みになっていただき、ありがとうございました。