Human Evolution

38x46cm
2023
Oil, Acrylic, india ink, alcohol marker on canvas and old clothes

コンセプト:
多感な時期を古着の街・下北沢で過ごした。当時は小遣いもなく、古着すら買えない生活であったが、古着屋を見て回るのは好きでよく独りの時間を費やした。アメリカもののTシャツやジーンズ、帽子やブーツまで。それらはまるでゲームの中で遺跡から発掘された伝説の装備のように、弱い自分を強くする変身願望を満たす、幼い私の憧れの対象であった。いつか大人になってお金を自由にできるようになったら真っ先に古着を購入したい、そんな話を友人にしたことがある。真っ先に飛んできたのは「古着なんて気持ち悪い」のひと言だった。彼は裕福な家に育ち、やや潔癖なところもあり、そういう答えになるのも少し予想がついていたが、私は自分が好きなものを全否定されたことに傷ついた。そして改めて考える。なぜ古着が気持ち悪いのだろう?
古着は当然のことだが、誰かが着ていたものだ。その誰かの皮脂や臭いがついてるかもしれない?いや、そんなものは大抵洗濯すれば取れるはずだ。私は気持ち悪いと感じられてしまう最も強い理由は、「個人の記憶や想い」なのではないかと考える。前の持ち主はそれをとても気に入って買ったかもしれない。そして、ここぞというときの勝負服として着ており、誰かと愛の言葉を交わす夜を過ごしたかもしれない。ベッドサイドに脱ぎ捨てられる服。はたまた前の持ち主は、ツキの無い人生を送っていたかもしれない。ギャンブルでお金を失くして泣く泣くその服を手放した。はたまた前の持ち主は…様々なドラマがいくらでも思いつく。それがハッピーなものだろうが悲劇であろうが、他人の人生。それを感じる媒介として、古着があり、人によっては今を生きる自分とは別の物語を受け入れがたく感じてしまうのだろう。私個人としてはレンタルDVDを探るような気持ちでとても楽しいことなのだが、友人は違ったようだ。
服は「個人の記憶や想い」を染み込ませられるメディウムとしてだけではなく、よりマクロに捉えるとさらに面白い。服を脱ぐと、人間は無防備になる。猿と一緒だ。服を纏っているということでかろうじて原始からの脱却をした知的生命体であるという世間体を保っている。現に街なかで素っ裸でいたらこの現代社会では逮捕されてしまう。服は「社会と個を切り分けるもの」なのである。だから私は、裸のキャンバスに古着を纏わせてみた。途端、このキャンバスは個人的なものではなく社会的造形物になる。そして原始、つまり宗教画をはじめとした純粋な絵画芸術から脱却し、現代における先端芸術に身を置くという世間体をとる。さらに現代アートはマーケットに左右される産業であり、そこを流通する作品たちは、まるで大人のための着せ替え人形のごとく消費されていく。そんなアイロニーをも込めて、唯一無二の人生ドラマを包括する一点ものの作品として、ここに表現する。